瑠璃色に引き寄せ

 

 瑠璃に引き寄せられ奈良と滋賀に出かける。奈良国立博物館と滋賀のM I H O美術館それぞれに国宝茶碗、夜空に星を散りばめたような輝きの曜変天目茶碗が公開されている。MIHO美術館には、国宝のほか加賀藩前田家三代利常が収集した曜変天目茶碗もあった。

 近年、金沢城跡や江戸の加賀藩上屋敷跡の発掘調査で江戸初期1610年(慶長15年)から1630年(寛永7年)頃の茶道具が出た。加賀藩茶道具コレクションには、重要な陶磁器約600点のうち、国内産160点に対し、国外産約400点と藩の表御納戸御道具目録(弘化3年、1846年)にある。瀬戸の天目茶碗、織部・高取の水指、伊賀の茶壷などの国内産品のほか、中国の天目茶碗、華南三彩茶壷、朝鮮の線刻壺、ベトナムの長胴壺などがあった。日本国内産とともに中国、朝鮮、ベトナム産などの優れた陶磁器を収集し、茶道具として用いたことがわかる。前田利常には、当時の最先端の美術品を持つ執念を感じてしまう。それとも瑠璃の茶碗に何かを求めていたのだろうか。

白の思想

 

 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という白装束に身を包んだ女性の儀式が立山で江戸時代に行なわれていた。最近まで途絶えていたが20年ほど前に復活した。その布橋は、あの世とこの世を渡す白道、生と死の境界である。諸国からの参詣女性が白装束で目隠しをして、閻魔堂(幽界)に入り、十王の審判を受ける。全ての罪を懺悔し、汚れを払った女人は、白経帷子の死装束を着け、白布を捧げて天ノ浮橋を渡る。

 江戸時代始め、加賀藩前田家の、初代利家の妻まつと玉泉院が布橋灌頂会に出向いている。まつは江戸に人質となっている間、常に家族の状況を心配して書状を送り、指示を出していた。長男の利長が高岡で静養しているものの幕府に帰郷を願い出るも許しが出ない中、利長は慶長19年(1614年)5月に亡くなった。その後、まつは帰郷が許され、同じ年の慶長19年(1614年)8月、玉泉院と金沢から立山に向かっている。寺社来歴によると、「八月。芳春院・玉泉院二夫人越中中新川郡立山中宮寺に参詣す。」とあり、利家と子供の菩提を供養するためと言われている。

 

 40年近く稽古に通っていた茶道の先生が亡くなられた。自分の母親が亡くなってからは、茶道の先生を母親と思って接していた。白菊で飾って欲しいと先生が生前希望されていたらしい、祭壇に多くの白菊が飾られていた。白い色には、人の気持ちを良い方向性に向け、リセットする力を持っているかのように白い色に従ってしまうのだろう。

 

富山県立山町芦峅寺 布橋 白装束に目隠しをした女人衆が渡る 2022年9月25日 5年ぶりに開催予定

朱鷺色の思想

 朱色の鷺を朱鷺と言う。村本義雄さんは、そのように言う。確かにそうだ。高貴な色で平安時代の正倉院の太刀の手で握る部分に朱鷺の羽根が2枚使われているようだ。

 

 朱色の中でも朱鷺色は最高の色のようだ。富来町の増穂ヶ浦海岸にある桜貝もよく似た色だ。気多大社の遺跡に炎を使用した跡がある。祈りの儀式などが行われていたのだろうか。朱鷺色が能登半島によく似合っている。

 分散飼育を10年ほど前からしている。朱鷺の放鳥ばかりが話題になるが、肝心の餌さになる蛙や虫がない。仲間の朱鷺もいないなか、放鳥すると死んでしまうかもしれない。先の長い取り組みが必要のような気がする。

国際朱鷺保護交流資料館(羽咋市上中山町)

群青の天

 

 中世の武士は星空を見て、明日の戦を占っていたようだ。沈む夕陽、月がうっすらと見え、一日の疲れを癒すときだ。現世では安穏な生活を送り、後世では善処に生まれることを願っていたのだろうか。現世利益を求める者は、自然界にあるものを神仏に見立てていたらしい。

 自然と一体となった生活をしていた中世の日本人は、日・月・星が人間の運命を支配すると考えていた。

成巽閣 群青の間

 加賀藩の前田斉泰公が母の隠居所として建てた成巽閣には、群青の間がある。朱が主流の部屋の内装にあえて青を取り入れた。フランスから輸入されたウルトラマリンブルーを用いた群青の景色、藩が日本海に面して位置していることを意識していたのだろうか。

 幕末で外敵がいつ押し寄せるのかわからない、時代が移り変わる空気を感じ取り、これまでの内なる世界から外なる世界に目を向ける群青の環境を作ったのだろうか。 

   

 それとも母の体が衰えるなか、いつでも空や海の青を部屋の中でも見ることができるようにしたい。有意義な余生を過ごしてほしい、子が母へ抱く自然な想いがあったのだろうか。