白の思想
布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という白装束に身を包んだ女性の儀式が立山で江戸時代に行なわれていた。最近まで途絶えていたが20年ほど前に復活した。その布橋は、あの世とこの世を渡す白道、生と死の境界である。諸国からの参詣女性が白装束で目隠しをして、閻魔堂(幽界)に入り、十王の審判を受ける。全ての罪を懺悔し、汚れを払った女人は、白経帷子の死装束を着け、白布を捧げて天ノ浮橋を渡る。
江戸時代始め、加賀藩前田家の、初代利家の妻まつと玉泉院が布橋灌頂会に出向いている。まつは江戸に人質となっている間、常に家族の状況を心配して書状を送り、指示を出していた。長男の利長が高岡で静養しているものの幕府に帰郷を願い出るも許しが出ない中、利長は慶長19年(1614年)5月に亡くなった。その後、まつは帰郷が許され、同じ年の慶長19年(1614年)8月、玉泉院と金沢から立山に向かっている。寺社来歴によると、「八月。芳春院・玉泉院二夫人越中中新川郡立山中宮寺に参詣す。」とあり、利家と子供の菩提を供養するためと言われている。
40年近く稽古に通っていた茶道の先生が亡くなられた。自分の母親が亡くなってからは、茶道の先生を母親と思って接していた。白菊で飾って欲しいと先生が生前希望されていたらしい、祭壇に多くの白菊が飾られていた。白い色には、人の気持ちを良い方向性に向け、リセットする力を持っているかのように白い色に従ってしまうのだろう。