北陸に見る 能楽と茶道へのアプローチ





令和5年を迎え、平穏に送れることに感謝する毎日です。私たちの祖先が築き上げてきた、さまざまな文化に触れ、お寺や神社を巡り歩いたり、和歌や俳句に歌われた名所をおとづれたりして、思い出を作る。
自分が生かされている回りの人々を思い浮かべてみる。そんな毎日を過ごし、より充実した毎日を送ることが出来ればと思います。

布橋灌頂会ぬのばしかんじょうえに出向く女性

 加賀藩初代藩主利家の妻、まつは玉泉院を伴い長男利長が死去した年に布橋灌頂会の立山に出かけている。立山の芦峅寺集落までは、高低差もあまりない。極楽世界に夫利家と長男利長を導いてほしいとの願いを持っていたのであろうか。まつの心中を押し測ることはできない。芦峅寺を散策してある絵の前にいると、ガイドの方から教えられた。

富山県立山町芦峅寺 布橋

「二河白道図」を元にこの絵が描かれています。浄土信仰に基づく宗教絵画という。この「二河に がとは水と火の二つの河をあらわし、そのあいだをこちらの娑婆世界からあの世の極楽世界に向かって一本の「白い河」が通っている。娑婆世界には、さまざまな賊や悪獣が群がり、彼方の浄土世界には阿弥陀如来が手招きをして待っている。その阿弥陀の声にはげまされて、往生者は「白道」をとぼとぼ歩いていく。人間の貪欲と瞋恚しんに(怒り)の心を水と火の二河に譬える説は、中国唐代の善導(613〜681)が極楽往生を勧めるために考え出した比喩である。布橋灌頂会は、5年ぶりに令和4年9月25日に関係者のみで開催された。

山折哲雄 「能を考える」 中央公論新社 2014年3月初版 能〈石橋〉と「二河白道図」

金沢駅兼六園口(東口) 鼓門とその左右に3本ずつ松の木があるのはなぜ?

 北陸新幹線が開業し、駅前のドームがジェットコースターに見えるなどの話題に上がる先進的観光地としての認識が広まる金沢。その金沢駅に降り立つと、そのドームを支えるかのように大きな鼓門がある。鼓の胴の部分を両側に立て、木材を螺旋状に絡めたデザイン。そこを通ると両側に3本のクロ松がある。

 能楽の立場からすると、演者が鏡の間から大きな鼓門の下を通ると、3本の松の間、橋掛かりを通る。駅に降り立つ客の目の前には、いよいよ舞台、街へと登場する。その街では客自身が演じて記憶に留める作業が待つ。まさに文化の街の舞台装置を感じることができる。

金沢駅兼六園口(東口) 鼓門とクロ松(2022年4月)
ライトアップされた鼓門 (2021年12月)

鳥が結ぶ天界と地上界。豊かな精神性に依存する地域社会が存在したのでは?

 環境省が全国で朱鷺の自然放鳥を目指す箇所の選定候補に石川県が立候補する。中国との朱鷺の交流をしてきた村本義雄氏がまさに石川の朱鷺の人である。平安時代にすでに朱鷺の存在があり絵巻に描かれていた。その作品からは朱鷺がその時代の人にとっては貴重な存在だったようだ。羽咋市氣多大社では、鵜を神の化身とした鵜様道中や鵜祭りが今もなお続いている。

鵜祭り 石川県羽咋市氣多大社 (2015年12月16日未明) 

瑠璃色に引き寄せ

 

 瑠璃に引き寄せられ奈良と滋賀に出かける。奈良国立博物館と滋賀のM I H O美術館それぞれに国宝茶碗、夜空に星を散りばめたような輝きの曜変天目茶碗が公開されている。MIHO美術館には、国宝のほか加賀藩前田家三代利常が収集した曜変天目茶碗もあった。

 近年、金沢城跡や江戸の加賀藩上屋敷跡の発掘調査で江戸初期1610年(慶長15年)から1630年(寛永7年)頃の茶道具が出た。加賀藩茶道具コレクションには、重要な陶磁器約600点のうち、国内産160点に対し、国外産約400点と藩の表御納戸御道具目録(弘化3年、1846年)にある。瀬戸の天目茶碗、織部・高取の水指、伊賀の茶壷などの国内産品のほか、中国の天目茶碗、華南三彩茶壷、朝鮮の線刻壺、ベトナムの長胴壺などがあった。日本国内産とともに中国、朝鮮、ベトナム産などの優れた陶磁器を収集し、茶道具として用いたことがわかる。前田利常には、当時の最先端の美術品を持つ執念を感じてしまう。それとも瑠璃の茶碗に何かを求めていたのだろうか。

白の思想

 

 布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という白装束に身を包んだ女性の儀式が立山で江戸時代に行なわれていた。最近まで途絶えていたが20年ほど前に復活した。その布橋は、あの世とこの世を渡す白道、生と死の境界である。諸国からの参詣女性が白装束で目隠しをして、閻魔堂(幽界)に入り、十王の審判を受ける。全ての罪を懺悔し、汚れを払った女人は、白経帷子の死装束を着け、白布を捧げて天ノ浮橋を渡る。

 江戸時代始め、加賀藩前田家の、初代利家の妻まつと玉泉院が布橋灌頂会に出向いている。まつは江戸に人質となっている間、常に家族の状況を心配して書状を送り、指示を出していた。長男の利長が高岡で静養しているものの幕府に帰郷を願い出るも許しが出ない中、利長は慶長19年(1614年)5月に亡くなった。その後、まつは帰郷が許され、同じ年の慶長19年(1614年)8月、玉泉院と金沢から立山に向かっている。寺社来歴によると、「八月。芳春院・玉泉院二夫人越中中新川郡立山中宮寺に参詣す。」とあり、利家と子供の菩提を供養するためと言われている。

 

 40年近く稽古に通っていた茶道の先生が亡くなられた。自分の母親が亡くなってからは、茶道の先生を母親と思って接していた。白菊で飾って欲しいと先生が生前希望されていたらしい、祭壇に多くの白菊が飾られていた。白い色には、人の気持ちを良い方向性に向け、リセットする力を持っているかのように白い色に従ってしまうのだろう。

 

富山県立山町芦峅寺 布橋 白装束に目隠しをした女人衆が渡る 2022年9月25日 5年ぶりに開催予定

朱鷺色の思想

 朱色の鷺を朱鷺と言う。村本義雄さんは、そのように言う。確かにそうだ。高貴な色で平安時代の正倉院の太刀の手で握る部分に朱鷺の羽根が2枚使われているようだ。

 

 朱色の中でも朱鷺色は最高の色のようだ。富来町の増穂ヶ浦海岸にある桜貝もよく似た色だ。気多大社の遺跡に炎を使用した跡がある。祈りの儀式などが行われていたのだろうか。朱鷺色が能登半島によく似合っている。

 分散飼育を10年ほど前からしている。朱鷺の放鳥ばかりが話題になるが、肝心の餌さになる蛙や虫がない。仲間の朱鷺もいないなか、放鳥すると死んでしまうかもしれない。先の長い取り組みが必要のような気がする。

国際朱鷺保護交流資料館(羽咋市上中山町)

群青の天

 

 中世の武士は星空を見て、明日の戦を占っていたようだ。沈む夕陽、月がうっすらと見え、一日の疲れを癒すときだ。現世では安穏な生活を送り、後世では善処に生まれることを願っていたのだろうか。現世利益を求める者は、自然界にあるものを神仏に見立てていたらしい。

 自然と一体となった生活をしていた中世の日本人は、日・月・星が人間の運命を支配すると考えていた。

成巽閣 群青の間

 加賀藩の前田斉泰公が母の隠居所として建てた成巽閣には、群青の間がある。朱が主流の部屋の内装にあえて青を取り入れた。フランスから輸入されたウルトラマリンブルーを用いた群青の景色、藩が日本海に面して位置していることを意識していたのだろうか。

 幕末で外敵がいつ押し寄せるのかわからない、時代が移り変わる空気を感じ取り、これまでの内なる世界から外なる世界に目を向ける群青の環境を作ったのだろうか。 

   

 それとも母の体が衰えるなか、いつでも空や海の青を部屋の中でも見ることができるようにしたい。有意義な余生を過ごしてほしい、子が母へ抱く自然な想いがあったのだろうか。